他人にしろといわれたセックスでは妊娠に至らず、3月人工授精にトライした。
人工授精とは、夫がマスターベーションをして採った精液を、妻の排卵の時期にあわせて子宮内に注入すること。
要するにセックスしないで子どもをつくること、である。
夫の精子を妻の子宮に運ぶのは医者の役目、なんである。

人工授精の前日、まだ素足にならない時期なのに、私はペディキュアを塗った。
少しでも心の負担を軽くするために。

当日朝、我が家にはどよ〜〜〜〜〜んとした空気が。
フルタイムで働いている私が朝イチ（AM8:30）に病院へ着くには、家をAM7:30に出なくてはならない。
しかし、人工授精を受けるためには手ぶらでは駄目だ。
夫の「アレ」が必要だ。
病院の採精室でフレッシュな精子を出してもらうのが理想なのだけど、その間私は病院で待っていなくてはならない。
夫が精子を出すのを、早くしろ〜、早くしろ〜と。
しかも、出した精子は最良の状態にするために、特別の処理を行う。
処理には1時間くらいかかる。

病院の採精室を利用すると、私が会社に着く時間が遅くなってしまう。
ということで、私がAM7:30家を出ることができるよう、夫に依頼した。

夫は容器を持ってパタンとドアを閉じた。
待つこと10数分（？）
夫は「アレ」をさしだした。

私は無言で受けとり、カバンに入れ、家を出て走った。

夫の精子をカバンに入れて、出勤前に人工授精に挑む女。
うーん、なんつうか、今となっては滑稽だ。
でも、当時は必死だった。
馬鹿みたいに人生を賭けていた。

病院に着き、受付のきれいなお姉さんに、「アレ」をさしだした。
お姉さんは慣れた手つきで受けとった。
夫の精子は、特別の処理をされに病院内へ行ってしまった。

待つこと1時間弱、
「蓬田蘭さん」ようやく呼ばれた。

私は診察室に向かった。
産婦人科の診察に、すっかり慣れた私は、
診察室に入るや否やパンツを脱ぎ、内診台に座った。

看護師さんがチューブやら何やらパタパタと準備をし、
気がつけばドクターが。
ドクターは「蓬田蘭さんですね、蓬田蘭さんですね、蓬田蘭さんですね」
と3回も私の名前を確認した。

わかっているのに、名前を3回も呼んでしつこいなぁ、と思ったとき、はたと気がついた。
これは、間違いを犯さないよう、確認をしているのだぁ。
細心の注意を払っているとはいえ、夫ではない、誰か知らない人の精子を
注入してしまうことだって、
ありえないわけではないんだ。

ガーーーーーーーーーーーーン。

しかーし、時はすでに遅し。

「はい、緊張しなくていいんだよ。
痛くないからね、大丈夫だからねぇ」
とドクターに言われているうちに、人工授精は終了した。

痛くもかゆくもなかった。
目を白黒させている私に
「痛くなかったでしょ。上手でしょ」
とドクターにやり。

看護師さんにストップウォッチを手渡され、
「5分後に鳴ります。そうしたら、起きていいです。
それまでは横になってくださいね」
と言われた。

気がつけば、ドクターも看護師さんも退散していた。
私は一人ぽつんと横たわっていた。
不妊治療クリニックの朝は忙しい。
人工授精なんて、初歩中の初歩。
体外受精だって、顕微授精だって、凍結胚移植だって控えているのだ。
たかが人工授精の患者になんか、かまっている暇はないのだ。
わかっちゃいるけど、不安だったし、切なかったし、むなしかった。

5分後ストップウォッチはピピピと鳴り、
私はパンツをはき、お会計をして、病院を出た。
チーン、20,000円なーり。
こんなんで、20,000円かよ。
不妊治療は儲かるわけだ、妙に納得。

ＡＭ10:00ジャスト、会社に到着。
私は何事もなかったかのように、タイムカードを押し、デスクについた。
心臓バクバクだったけれど、ポーカーフェイス、ポーカーフェイス。
覆面不妊患者は、演技力が勝負。

私は職場にはもちろんのこと両親にすら、不妊治療を受けていることを伏せていた。
知っているのは、ごく数人の気心知れた大切な人達と不妊患者のグループの人たちのみ。

こんなことをしているなんて、人には言えなかったし、言いたくなかった。
言ったら私、泣き崩れてしまうから。
言わないことで崩れそうになる自分自身を支えていた。