現代の生命科学がまったく新しい未来の世界を切りひらく（切りひらいてしまう）のではないかという予感はかなり前からありました。ＳＦ作品の中には、生命科学・医療技術による人間改造の話がたくさんあります。１９３２年に刊行されたオルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』(Brave New World)はその代表的なものでしょう。しかし、さしあたりそれらは遠い未来の空想世界のことと考えられていました。

　しかし、２０世紀の末になって、人間改造はにわかに現実味を増し始めました。遺伝子の構造が明らかになり人の遺伝子の操作の可能性が出て来たこと、体外受精の成功以降、人の発生初期への介入が可能になったこと、そして向精神薬や身体機能増強薬等の開発が進んだことにより、医学が病気を治す以上のことをふんだんに行えるようになってきたからです。これを明るい未来であり、人類の夢の実現の兆しだと見る人もいるでしょう。しかし、むしろ何かはっきりとは予想できないたいへんな災厄が近づいてきていると感じている人も少なくありません。

　そこで、新たに「生命科学・医学が人間を変えてしまうかもしれない」という危機感に根ざした生命倫理の考察が急速に台頭してきています。この動向の重要性を世界に告知したのは、アメリカの大統領諮問生命倫理委員会のレポート『治療を超えて――生命技術と幸福の追求』 (Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness, A Report on the President’s Council on Bioethics Regan Books) です。昨年（２００３年）の末に書物の形で刊行されたこのレポートは、今後の世界の生命倫理の討議に大きな影響を与えることになるでしょう。明快な問題設定を行い、突っ込んだ考察がなされており、生命倫理の討議に新しい方向性を与えたと言えるほどの意義をもつと言えるかもしれません。アメリカという国の大きさ、力強さを感じさせる本です。

しばらく主にこの書物について紹介しながら、「能力増強」（enhancement）とは何か、「治療を超えて」とは何を意味するのか、そしてそれはどこまでしてよいことなのか、それが好ましくないとすればその理由は何なのかといった問題について考えていきたいと思います。その際、私の関心はこれまでと同様、文化にあります。能力増強・人間改造といったことにつきその是非を問うとなれば、価値観の根っこにまで遡らなければならないでしょう。「倫理」の問題ですが、理論的に論ずるだけでなく、生活のあり方全体を顧みながら、文化や宗教、そして宇宙観や人間観、社会観や死生観といった事柄を基礎として考えていかなくては納得のいく答は出てこないと思われるからです。

この点でたいへん興味深いのは、『治療を超えて』(Beyond Therapy)では倫理的考察の要にあたるところで、しばしばアメリカ人の価値観に言及していることです。これはこの書物の重要な特徴の一つです。「倫理」というと人類が共有できる倫理法則があり、それを適用していくことで多くの問題が解決できるという考え方が強いです。生命倫理の議論でも、そのような前提の下に議論がなされることが少なくありません。しかし、この本はそのような立場に立っていません。宗教や文化によって育てられてきたアメリカ人の価値観に問いかけながら、普遍的な答えに近づこうとしているのです。

特定の文化や生活のあり方の基礎から考えるという姿勢には私も共感するところがあります。しかし、この本を読んでいると、力点があまりにアメリカ人の価値観に置かれすぎていると感じることも少なくありませんでした。「これはアメリカ人だけの問題ではないぞ。勝手に決めないでくれ」と言いたくなるわけです。アメリカの価値観から考え始めることはいいけれども、そもそもアメリカ人だって一枚岩ではありません。また、たとえある種の傾向がかなり共有されているとしても、それを人類共通の考察課題へと拡充してほしいと思うのは当然です。もちろん著者たちはそれを意識しているはずですが、その普遍化の手順が見えにくいのです。普遍化するには文化や価値観を比較し、自文化の価値観を相対化しながら、解決の道を探ることが必要でしょう。

文化の多様性の意識化の必要性があまり説かれていないことは、生命倫理の議論全般に言えることですが、文化を重要視しているはずのこの本に対してとくに強く私が抱く疑問の一つです。「世界の生命科学と先端医療を引っ張るアメリカがこんなことでは困る」という思いは、多くの人々が共有しているものでしょうが、この本をよんでもその思いは払拭されません。もっとも日本から力強い声をあげているわけではないので、情けないつぶやきにならざるをえませんが。


参考文献
Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness
The President's Council on Bioethics Washington, D.C., October 2003
http://www.bioethics.gov/reports/beyondtherapy/index.html